「……離してっ!」

          彼のくれた優しさと温もりに一瞬、全てをゆだねてしまいそうになった。その気持ちを跳ね返すように彼を
         強く突き飛ばして彼を見つめる。
         「貴方の気持ちは嬉しいけど」

          彼の表情が強張りアイスブルーの瞳が悲しみで揺れるのを見た。彼は何も言わずただ私の声に耳を傾けている。
         「ゎたし……。 私は、貴方を執事以上の存在として見ていない」

          私と彼の想いは同じ、それでも彼と共に歩む事は出来ない。
         「もう休むわ」

         「クラウディア様っ」

          彼は先を歩く私の腕を掴み悲しげな眼差しで私を見つめる。
          「気安く触らないでちょうだい」

          彼は私の言葉に戸惑いながらも何とか言葉を紡ごうとする。しかし結局声になることは無く何も言わないまま俯いて
         私の腕をそっと離した。
        「…………執事、として、の立、場を忘れ、このような、醜態(しゅうたい)、を晒しました事、大変、申し訳ございませんでした」

          彼は俯き、氷の刃を飲み込んだような苦痛に満ちた声で途切れ途切れに執事としての言葉を紡ぐ。
         「では私、はここで、失礼いたします」

          これでいい。私は遠ざかる彼の足音に背を向けて自室へ戻る。二人の消えた廊下に最後の鐘の音が鳴り響く。
          部屋の扉を開けると月明かりで薄暗い部屋は悲しげに私を迎え入れた。
         「私、上手に嘘がつけたかし、ら?」

          私は崩れ落ちそうになる体を必死に支えながらテラスの椅子に腰掛ける。
         「後悔、する、なら言わなければ、良い、のにっ……」

          様々な想いが重なり合って私の胸に圧し掛かる。何故、私の時は動かないのだろう。
          その問いに答えてくれる人は居ない。私の想いは夜露(よつゆ)となって空の星々と共に砕け散りながら輝いていた。





                               ――おきろ。 目を開けてくれっ……。
                                       またこの夢。
                               ――頼む……起きて、くれ……頼むっ。
                                   私の大好きな真紅の瞳。
                         ――滅び、てしまえば……よかった、悪魔も神も人も全て……。
                                  お願い、もう苦しまないで……。
                          ――私はここで……お前が生きた、意味を……守ろう。
                              私は大丈夫だから、だからお願い……。




         「お願いだからっ……」

          部屋に私の虚ろ気な声が響いた。いつの間にか眠っていたのかぼぅっとした状態で辺りを見回す。
          するとテラスに居たはずの私はベッドに寝かされていた。私は真っ先にロゼの事を思い浮かべた。あんなに酷く
         傷つけてしまったのにわざわざ様子を見に来たと思った。そんな優しい彼を傷つけた後悔しながらベッドから降りる。
         「紅い、薔薇?」

          サイドテーブルの上にひっそりと置かれた紅い薔薇。私はそっとその薔薇を手にする。
          血の色のような濃い赤に黒の模様が入った珍しい真紅の薔薇。私は咄嗟にテラスに駆け出る。
          そこには黒くて大きな人影が薔薇園を横切って歩いていくのが見えた。私は急いでマントと懐中時計を持って
         部屋を飛び出す。

          ――おきろ。 目を開けてくれっ……。
          どうしてこんなに惹かれるんだろう。この悲しい声に。
          どうしてこんなに懐かしいんだろう。あの真紅の瞳が。
          大切な何か。忘れてはいけない大切な約束を忘れてしまっているような気がして必死に真紅の面影を追い求めた。
         「はぁは、ぁ〜」

          人影を追って町外れの公園まで来てしまった。辺りを見回しても人の気配は無い。
          私は少し諦めかけて冷たいベンチに腰掛ける。
         「私、なに、してる、んだろぅ?」

          夜露が顔を覆った時、淡い光が私の頬をそっと掠めた。その光は私の前で揺れながらゆっくり移動して夜の闇に消えた。
          私は何かに導かれるように光の消えた方向に目を凝らす。
          するとそこには黒い人影が無数の光に囲まれながら佇んでいた。私の心臓が大きく飛び上がる。
          一つ大きく息を吸い込み意を決してゆっくりと人影の居る方向へ歩きだす。
          人影のすぐ傍まで来ると黒く無造作に伸びた長い髪が風に揺れているのが辺りに浮かんでいる光で分かった。
          背中側だからなのかとても威圧感がある。でも不思議と恐ろしさは感じなかった。
         「ぁなた、は?」

          私の言葉と共に辺りを照らしていた光は消え黒髪の男性は僅かに顔を私の方へ動かした。
          でも顔を確認する事が出来ず、黒髪の男性は私に何も反応を示さないままゆっくり歩き出す。
         「ぁっ、ま、待って!」

          緊張で強張っていた足を慌てて動かしたためか足がもつれて派手に倒れこんでしまった。このままじゃまた見失う。
          そう思って顔を上げると黒髪の男性は以外にも足を止めてその場に佇んでいた。心配してくれているのだろうか。
          その背中が何かとてつもない悲しみに満ちているような気がして急いで立ち上がろうとする。
         「ぁあっ」

          倒れこんだ私の体の下に真紅の薔薇が転がっていた。私は潰れた真紅の薔薇をそっと救い上げる。
          私の不注意でただでさえ短い薔薇の命を絶ってしまったかと思うと辛くてその場にうずくまって夜露が頬を伝う。
          すると影が月の光を遮り私を覆い沢山の真紅の薔薇が私の腕の中に降り注いできた。
         「ぅ、わぁ……」

          両手いっぱいの真紅の薔薇。
          優しい香りに包まれて暖かい夜露が薔薇に落ちる。
         「ありがとう」

          私はしゃがんだまま男性を見上げる。
          ――夢の方と同じ血のような真紅の瞳。
          男性の真紅の瞳と険しい横顔が何処と無く悲しげに夜の闇に浮かんでいた。
          私は込み上げてくる切なさと胸をえぐられたような悲しみを堪え、平静を装いながら男性にマントを差し出す。
         「このマントを掛けてくださったのも貴方なのでしょう? ずっと返さなければと……」

          私はその時、金の懐中時計が無い事に気が付いた。転んだ時にでも落としたのだろうか。慌てて辺りを見回しても
         この暗がりで落し物を見つけるのは難しそうだった。
         「ご、ごめんなさい。 私、大切な物なのに……」

          その時、リスの足音のような一定のリズムを刻んだ小さな物音が聞こえてきた。
          音のするほうへ目を凝らすと月明かりを受けて輝く金の懐中時計があった。
         「どうして、止まっていたはずなのに……」

          ゆっくりと歩き出そうとした時、黒い手袋をした男性の手が伸びてくる。
          男性は私の腕を乱暴に引き寄せて黒いマントの中に捕らえる。
          強く、強く私を抱きしめる男性の逞しい腕は荒れ狂う海のように酷く震えていた。
          啜り泣くような苦しげな息遣い。
          ――この人を苦しめているのは私。
          これまで抑えていた切なさと胸をえぐられたような悲しみに全身が支配されて私は必死に男性にしがみ付く。
          するとそれに答えるように男性の腕の力も次第に強くなる。
          息が出来ないほどに苦しい。でも離してはいけない気がした。



          私と男性の足元で封印されていた時が静かに流れ始める。目の前の男性を捕らえている
         血塗られた楔が私の体を拘束するような気がした。
         「出逢っては、なら、なかった……」

          初めて響く風のように掠れた声。
         「出逢っては、ならなかったっ」

          金色の月から雫が伝う。
         「ル、ヴァ、ント?」

          離れ離れになっていた記憶の欠片を一つずつ拾い集める。
          二度と忘れないように彼の存在を心に刻みつけながら。
         「お願い、もう苦しまないで」

          彼が驚いたように腕の力を緩める。
         「私は大丈夫だから、だからお願い……」

          彼の真紅の瞳を見つめる。私を包み込む彼は今にも硝子のように砕けて消えてしまいそうだった。
         「泣かないで」

         「…………っ」

          彼は私を強く抱き寄せて唇を重ねる。全てを貪りつくそうとするように徐々に深くなる口付けに息が苦しくて
         彼の腕から逃れようとした。でも逞しい腕に強く抱き寄せられて抵抗することが出来ない。
         「はっぁ、んっ」

          激しい口付けに体の力が抜けそうになってふと目を開ける、
         彼の閉じられた真紅の瞳から止めど無く涙が溢れていた。私は抵抗をやめて彼にしがみ付いて体を預ける。



          金色と真紅(あかい)月から堕ちた雫が雨になり交わる。
          そんな二人を哀れむように黒真紅の薔薇が悲しい夜風の旋律(うた)と共に静かに散る。














                              ――殺したいほどに愛している。