――おきろ。 起きて、くれ。



         「……ん? ……んん〜〜〜」

           また、アノ夢を見た。誰かが私の名を必死で呼んでいる夢。窓の外を見ると朝日で町全体が金色に輝いて
         小鳥たちの歌が聞こえてくる。
         「夢での出来事なんて大体は忘れてしまうのに」

          忘れる事が出来ない。あの血のような真紅の瞳を。アノ方は何故あんなに悲しい瞳をして私を呼んでいたのだろう。
          アノ方はどういう人なのだろう。一度も出合った事のないはずの人なのに言いようの無い切なさで胸が一杯になる。
         「失礼いたします。 お嬢様、紅茶をお持ちいたしました」

          彼は慣れた手つきで紅茶を淹れベッドでくつろぐ私の元に銀のトレイを運ぶ。
         「えぇ、ありがとう。 ロゼ」

          私は運ばれてきた紅茶やビスケットに口をつける気になれず、ぼんやりと窓の外を眺める。
         大きな時計塔が朝の訪れを刻んでいる。
         「お嬢様? いかがなされました?」

          心配そうに私の顔を覗き込んでくる彼は私の執事【ロゼリュア・ディエール】。
          氷のような水色の髪にアイスブルーの瞳、背が高くいつも上品なえんび服を着ている。
          随分長い間私の執事として仕えているからか時々私をからかって楽しんでいる事があるように感じるけど根はとても
          優しい人。そして私の数少ない親友の一人。
         「お嬢様?」

         「あぁ、ごめんなさい。 少し考え事をしていたの」

          彼に心配をかけないために無理やりビスケットを口に運んで紅茶で流し込む。
         「……ご無理をなさらないでください」

          気遣わしげな眼差しで私を見ると彼は紅茶とビスケットのトレイを下げる。私はそんな彼の背を見つめると何故か
         心が和むのを感じた。彼の前では自分を飾らなくてすむからかもしれない。すると突然、目の前が真っ白に染まる。
         「わぁっ、きれぃ」

          私の腕の中一杯に渡されたのは純白の薔薇。そのあまりの美しさに言葉を失っていると彼のからかうような
         笑い声が聞こえてきて急に恥ずかしさが込み上げて我に返る。
         「美しいでしょう? 近頃、元気が無いご様子でしたので勝手ながらお庭の薔薇を少しばかり拝借いたしました」

         「ぉ、お父様に知られたらお叱りを受けるわよ?」

          彼はただ私の様子を見て微笑んでいる。私は少し乱暴に薔薇を彼に突き出す。
          彼は黙ってそれを花瓶に生けながら私に話しかける。
         「お嬢様はお忘れかもしれませんが、明日はお嬢様のお誕生日でございます」

          その言葉にはっとする。そういえばそうだ。毎年ロゼに言われるまで気が付かない。
         「私は明日で何歳になるのかしら?」

         「二十三歳でございます」

          私はうつむいて自分の体を見つめる。小さな子供の体。時が止まった私の体。
          十歳の頃から私の体の成長が止まり私を取り巻く環境が激変した。色々手を尽くして治療法を探したが結局原因は不明。
          その瞬間からまるで化け物を見るような目で見られ、汚い物を排除するように屋敷の隅に追いやられ、
         周囲から完全に孤立した。家族でさえ今の私に見向きもしない。たぶん私が死ぬまで、死んでもこの状況は変わらない。
          ――私は一人、時の流れ中に置き去りにされた。
         「そう、貴方と同い年だったわね」

          私はベッドから起き上がり窓を開ける。パンが焼ける良い匂いが私の気を紛らわせてくれた。
         「着替えるわ。 出て行って頂戴」

         「かしこまりました」

          背中越しに彼が部屋を出て行く音を聞きながら花瓶に生けられた純白の薔薇にそっと触れる。
         「庭に白い薔薇なんて咲いていないのにね」

          わざわざ何処かから取り寄せたのだろう。本当はとっくに気が付いていた。彼の優しくて下手くそな嘘。
          でも恥ずかしさでつい意地を張ってしまった自分に後悔しつつ薔薇を見つめる。良く見ると純白の薔薇は一つ残らずトゲが
         ついていない。
          そういえば彼、何時もとは違う手袋をしていた。
         「お礼を言いそびれてしまったわね」

          こんな私にあんなに優しくしてくれる人は他に居ない。でも彼は私の執事。私に優しく接するのは仕事上での事。
          そんな思いが私の中にあるためか彼に会うといつも憎まれ口ばかり言ってしまう。
         「後悔するなら言わなければいいのに、馬鹿ね」

          素直になれない自分が嫌になってベッドに顔を埋めてごろごろしている。すると突然ある事を思い出してベッドから飛び起き
         ドレッサーの引き出しを開ける。
          そこにあるのは大きな黒いマント。
          私は昔を懐かしみながら黒いマントを抱きしめる。雨とお日様の香り、澄んだ湖のような冷たさがとても心地良い。
          するとマントの内ポケットから金の懐中時計が転がり落ちる。私は慌てて懐中時計を拾い上げて光にかざしてみる。
          でもそれは既に壊れていて時を刻む事を忘れているように金色に輝いていた。
          急に心の中が言い知れぬ切なさで満たされて行く。私はふと今朝の夢の事を思い出して改めてマントを抱きしめる。
         「ひょっとしたら夢に出てくるアノ方はこのマントの持ち主かもしれないわね」

          不意にドアをノックする音が部屋に響き数人のメイドが部屋に入ってくる。






          ――昼下がり。ロゼは今朝の事を気にしているのか、私の元に顔を見せようとしない。
          私は何時ものように庭にある薔薇園へ向かう。薔薇園は広大な土地の中一杯に様々な種類の薔薇が迷路のように入り組み
         『我こそ世界で一番美しい』とでも言うように誇らしげに風に揺れていた。甘く芳醇な薔薇の香りが私の胸を満たし沢山ある
         薔薇の一つに手を伸ばす。
         「紅い薔薇」

          私はそっと薔薇のトゲに触れる。大きくて硬いトゲが沢山ついている。すると不意に何者かに手を取られる。
         「お嬢様っ。 薔薇にはトゲがございます故、摘み取られる際には私(わたくし)か使用人などにお申し付けください」

          私は突然の事で少し驚いていると彼が気遣わしげな眼差しで私を覗き込んできた。
          その瞳には何処か悲しみがにじみ出ているようにも見えた。
         「…………後悔しているのはお互い様ね」

         「お嬢様?」

          私は可笑しくなって笑いながらそう言うと困惑している彼の手を優しく撫でる。
         「貴方の手は大丈夫なの?」

         「ぇ? ぁ、トゲは花屋の方が取り除いてくださったのです。 私はなんともございません」

          私は更に可笑しくなって笑うと彼をまじまじと見上げる。普段の彼は常に冷静さを保って優雅に微笑んでいるのに
         今の彼には何時ものような余裕は感じられない。そんな動揺している彼が酷く可愛らしく見えた。
         「ちゃんと手当てしないと仕事に差し支えるわよ?」

         「っ、何の事でしょうか? 私は何とも……」

          本当に嘘が下手なんだから。彼は顔を赤らめながら私から手が見えないように隠してしまう。すると彼は気恥ずかしさを
         隠すように私を薔薇園の奥へ手を引く。確かこの先は人の出入りが多くて人目に付きやすい場所のはず。
         「ロゼ。 この先はあまり」

         「大丈夫です。 私がついて居ります」

          私は少し躊躇うと言われるがまま彼について歩いて行く。幾つもの大きな薔薇のアーチを潜ると大きく開けた場所に出た。
          そこにはテーブルセットが用意してあり既に大きなポットからは湯気が上がっている。私が驚いて立ち尽くしていると
         彼は何時もの笑顔で私を席に座らせてくれる。
         「お嬢様をこの席にご招待しようとずっとお待ち申し上げていたのです」

          良く見ると来た道以外に通路は無く、一面薔薇の壁で覆われていて外から姿を見られる事はなさそうだった。
          彼はそっと微笑むとイチゴのタルトを切り分けて紅茶の準備を始めた。
         「…………ありがとう」

          私は彼の背中に向かって小さく呟いた。紅茶を淹れる背中越しに彼が秘かに微笑んだ気配がする。
          彼の優しさに心がふわふわして温かくなる。
          ――何だかとても幸せだ。

          この幸せが出来るだけ長く続けばいいのに。そんな事を思いながら彼の淹れてくれた紅茶に口をつける。
          上品な紅茶の香りと甘酸っぱいイチゴのタルトと彼の優しさが凝り固まっていた心の疲れをゆっくりほぐして行くようだった。
 


         「ロゼ少し良いかしら? 今朝のことで少し話しておきたい事があるの」

          私はテーブルを片付けている彼の後姿に話しかける。彼は背中越しでも分かるぐらい動揺しながら私を振り返る。
         「そういえば、今朝は出すぎた真似をいたしました」

         「そうね、でもその事じゃないの。 貴方が勤め出す前の他愛ない昔話よ」

          彼は少し悲しげな気遣わしげな表情をしたけど静かに頷くと何も言わずに私の話に耳を傾けてくれた。
         「私の誕生日に決って紅い薔薇が届くのは知っているわね?」

          彼は無言のまま頷く。私は記憶の糸を探りながらゆっくりと周囲の薔薇に目をやる。
          この庭に咲いているどの薔薇よりも紅く美しい、そうまるで血のような何処か物悲しげな赤黒い薔薇。
          毎年、私の誕生日の朝には必ずその真紅の薔薇が一輪ひっそりと届けられている。誰に聞いても贈り主の姿を
         見た者は居らず、どんなに探し回っても届け主は分からなかった。
         「私、一度だけその贈り主が来るのを一晩中待ち続けた事があるの」

         「っ、素性の知れぬ相手を待ち続けて危険は無かったのですか?」

         「えぇ、大丈夫よ。 思ったとおりの紳士だったわ」

          彼はまだ何か言いたげな表情をしていたが私には薔薇の贈り主が危険な人だとはどうしても思えなかった。
          あの日もそうだったように。

          ソレは十八年前、五歳の頃の事。幼き日、数々の豪華なプレゼントよりもたった一輪の真紅の薔薇と
         その贈り主に酷く魅力を感じていた。何処か危険な香りのするその人物にどうしても会いたくて私は誕生日前日の夜、
         眠らずに屋敷の庭で薔薇の贈り人を待ち続けた。
         「気が付いたらもう朝で結局、薔薇の贈り主には会えなかったの。 でも……」

          あの日、目が覚めると手には真紅の薔薇が握られており私は大きな黒いマントに包まれていた。
         「優しい方」

          私は無意識に今朝マントから転がり落ちた金の懐中時計を取り出す。傷一つ無い綺麗な作りをしているのに
         時に忘れられた懐中時計。まるで私の存在を表すかのようで思わず持ち出してしまった。
         「あのマントの持ち主、が薔薇の贈り主ですか?」

         「変な所ばかり鋭いわね? そうよ、これはそのマントのポケットから出てきたの」

          この懐中時計を見ていると何か大切な約束を、忘れてはいけない大切な事を忘れてしまっている気がして切なくなった。
         「っ、お嬢様そのような品を軽々しく持ち歩いてはなりません」

          私が懐中時計に見入っていると彼が妙に声を荒げて怒り出す。
         「何をそんなに怒っているの? 大丈夫よ、今夜も来るだろうからその時に返すわ」

         「そういう問題ではありません!」

          私はこの事を彼に話したのを心の中で少し後悔して小さくため息をもらす。
         「だいたいお嬢様は無防備すぎるのです。 少しは自覚をもって……」

          こうなったらもう手が付けようが無い。私は彼のお説教を聞き流しながら冷めた紅茶を口に含む。
          彼は私の事になると時折周りが見えなくなってしまう。
          そう以前、こんな事があった。親戚だけを集めた小さなパーティーで私を見かけた夫人がその場の全員に
         聞こえるほどの大声で私を罵倒した挙句、晒しものにした。
          たった一人であの屈辱に耐える事しか出来なかった私のために声を荒げて怒りに打ち震えながら
         私を庇ってくれたのがロゼだった。当時の彼は数居る私の従者(じゅうしゃ)の一人でその日初めて
         顔を合わせたばかりなのに自分を盾にして唯一私を守ってくれた人。
          あれから数年、彼は私の執事として傍に居てくれる。


         「お嬢様の身に何かあろうものなら私は……」

          今日は良く昔の事を思い出す。私は未だに説教を続ける彼に少し呆れながら彼を見上げる。
         「過保護にしすぎると子供はぐれるわよ?」

         「なっ、執事たるもの主人以外の女(ひと)のために時間を裂くことなど……」

         「あら? その顔は本当に誰か良い人が居るのかしら?」

          彼は私の言葉に顔を赤らめて反論する。今日の彼はやけに感情的になっていて、からかいがいがある。
          美しい薔薇たちに囲まれて私たちの笑い声が空に響く。
          こうして優しい時間だけが過ぎ日が暮れて行く。






          ――私だけを置いて。