黄昏時、空が絶望に泣いている。


                            地上を焼き尽くした炎も絶望に飲まれ
                                 その力を弱めてゆく。

                       空がゆっくりと闇の静寂に侵食され降りしきる絶望の中
                              新たな生命が誕生しようとしていた。

                                彼らはまだ何も知らない。
                            それが全ての悲劇の幕開けであることを。




          ――鬱蒼と生い茂った木々に遮られ、太陽の光すら届かない深い、深い森の中。
          この森の奥には何千年も前から人々や森、歴史の全てを見守ってきた大樹が存在する。
          不思議なことに大樹の周りは美しい草花に溢れ、森の動物や妖精、魔物たちまでもが穏やかに過ごしている。
          この森に人間は立ち入らない。入った者は妖精たちの悪戯に付き合わされる事になるからだ。人々の出入りが無くなった
         この森は何時しか人々の記憶から忘れ去られていった。
          この森の持つ意味と伝承と共に。

          眩い朝焼けの空に深い霧が立ち込める。風が舞い、葉が触れ、音が生まれる。 木々の奏でる音に促されて森の
         動物たちが目を覚ます。 妖精たちの楽しそうな笑い声、小鳥たちが戯れる羽音が木々の音色に詩を添える。
          朝焼けの森は目覚めの歌に包まれて森の生命たちは大樹の元へ集まる。大樹の周りだけは霧も薄く晴れ、
         美しい花々や妖精たちに囲まれて森の歌に耳を傾けている。やがて自らの歌を披露するように青々とした葉が風と舞う。
          その場だけが下界から切り離された別世界のように幻想的な調べを奏でていた。

          そんな大樹の根元に一人の青年がいる。
          夜空に浮かぶ星のような銀色の髪。身にまとった黒い服は破れて白い肌が露となり、
         役目を終えた剣と共に力なく大樹にもたれ掛っていた。風が銀の髪を揺らす。青年は淡いすみれ色の瞳を開き悲しげに
         空を見上げた。青年を慰めるように大樹が歌う。そして森と妖精たちが口々に囁く。
          人々の記憶から忘れ去られたこの世界の伝承を。

          ――守りたい。 ただそれだけだった……。




          それはまだ誕生して間もない世界。ようやく地上に生命があふれ安定を見せかけていた最中の事。
          今まで良き協力関係であった光を司る神の王【ブリューナ】と闇を司る神の王【アスタロト】が世界の行く末を巡り戦争を
         始めてしまう。争いは平行線のまま一向にやむ気配を見せず、戦争による被害はとうとう地上にまで及んだ。
          大地は裂け、森は焼け、神々が本来守るべき多くの生命が命を落とした。そして気がつけば三百年という年月が経過
         していた。そんな時、地上に生き残った人間たちも自分たちの住む世界を守ろうと自ら武器を持ち光の神々の軍
         【神魔(しんま)騎士軍(きしぐん)】に加わる事になる。人間たちの軍勢は予想外の力を発揮し、闇の神々を次第に
         追い込んでゆく。その中に特に強い魔力を秘めた一人の少女がいた。

          少女は翡翠色の瞳に白(びゃく)緑(ろく)色の長い髪、淡雪のような民族衣装を身にまとっている。
          少女の登場により戦況は大きく光の神々へと傾き、闇の神々【邪神魔光軍(じゃしんまこうぐん)】を追い詰める。
          闇の王アスタロトはそれに対抗すべく新たな兵器を作り出そうとする。剣や杖などではない全く新しい生きた兵器を。

          アスタロトは、動物や魔物、天使や精霊、さらには味方である魔族たちまでも捕らえては生きたまま
         体を引き裂き内臓を引きずり出して魂を食らった。その姿はまるで気がふれた獣のように荒々しく
         実験と調整を繰り返していた。初めは見方内でも命への冒涜だと反対の声を上げる者が多く居たが
          まるで見せしめだと言わんがばかりに容赦なく処刑されその肉体は実験の糧とされた。
         「っ何故だ! 何故成功しないっ!」

          そんな時、アスタロトの一人息子【ジュペル】が戦死。光の王ブリューナの長男【ゼィノン】を生きたまま獄中に捕らえた
         と報告を受ける。その情報を聞き終えるとアスタロトがしばし考え込むと
         何か閃いたかのように邪悪な笑みをこぼし生け捕りにしたゼィノンの居る牢獄へおもむく。
         「貴様がゼィノンか」

          ゼィノンは頭部から血を流し、両手足を鎖に拘束されている。
         「お前は、何を企んでいる?」

          酷く掠れた声。ゼィノンの瞳がアスタロトを映し出す。
         「すぐに分かる」

          そう言うと場の空気が重く凍りつくような邪悪な気配に包まれる。アスタロトの左腕がドス黒く魔物の様に変化し
         素手でゼィノンの心臓をえぐり出す。ゼィノンの心臓は大量の血を吹きながらアスタロトの手の上で踊る。
          そしてジュペルとゼィノンの遺体が研究所へ運び込まれる。 
          城の外は木々が吹き飛ぶほどの激しい嵐。まるでこれから起こることを示唆しているように激しく、激しく空が怒り狂う。
          アスタロトはゼィノンとジュペルの心臓を両手に握り二つの心臓を貪るように丸呑みにした。
         「誕生するぞ新たな生命がっ!」

          嵐は過ぎ去り辺りは静寂に支配され
         月が、風が、大気が震える。
          漆黒の夜に浮かぶ血のような真紅の月
         (この男は誰だ?)
         彼らはまだ知らない
         (深紫……)
         自らの存在意義を
         (敵なのか?)
         そして
         (金瞳……)
         静かに
         (私は?)
         激しく
         (紅月……?)
         時を刻む。
          新たな運命(さだめ)を紡ぐために。


          アスタロトはゼィノンに【シオン】ジュペルに【ヴァンス】と新たに名づけた後、世話係など一通りの事柄を決め、
         役目を終えたかのように倒れこみ意識不明の状態に陥った。一方、魔道生物として新たな命を与えられた
         シオンとヴァンスには生前の記憶が全く無く、自分たちの置かれている状況が飲み込め無いまま漠然とした時を過ごしていた。

          ――昼下がり。一人の男が本を読みふけっている。彼の名はシオン。
          鋭い金色の瞳に艶やかな深紫の髪、えんび服のような長い軍服をしっかり着込んでいる。
          その几帳面な性格とは裏腹にかなりガッシリした筋肉質な体をしていた。

         「貴様は真面目に講義を聞いていたのか?」

          私は読みかけの本を閉じ、同じ部屋にいる銀髪の男を睨みつける。先ほどからコノ男は無気力を絵に書いた
         ように何に関しても無関心。そうかと思えば休憩時間になった途端、上着を脱ぎ捨てて窓際のソファーで寝転び
         身動き一つしない。私は男の様子に呆れながらも立ち上がる。

          ――昼下がり。一人の男が寝転んでいる。彼の名はヴァンス。淡いすみれ色の瞳に光り輝く銀色の髪、
         細身で人形のように色が白い。ヴァンスは言語機能に多少の障害を抱えていた。

         「……ぅ、ん?」

          金瞳の男が俺のことを睨んでいる。なんだか怒っているような、呆れているような複雑な表情。
         誇り高い獣の目。でも何処か迷ってる。戸惑ってる。彼は気丈に振舞うことで答えを探そうとしている
         のかもしれない。何故かそんな気がする。
         「このような所で居眠りとは、あまりにも不謹慎ではないか? そもそも真面目に講義を……」

          シオンは無言のまま隣の席を勧めたヴァンスの行動に眉をひそめ仁王立ちのまま説教を始める。
          ヴァンスはそんなシオンの話よりもシオン自身に興味を抱いたようで説教を続ける彼の姿をまじまじと観察していた。
         「聞いているのかっ!」
         「名、前な、んだ、っけ?」

          シオンは思わず言葉を失う。呆気に取られた金の瞳と不思議そうなすみれ色の瞳が空中でぶつかる。
          しばしの沈黙。それを始めに破ったのはシオンだった。
         「……お前は真面目に講義を聞く気があるのか?」
         「無い」

          ため息混じりに発せられたシオンの問いはあまりにも呆気なく返される。シオンは再び大きなため息を漏らし、
         無言のまま読書に戻る。
         「聞、く意、味あ、る?」

          シオンは驚いてヴァンスを振り返る。ヴァンスはそれ以上何も語らず、すみれ色の瞳が悲しげに
         何かを訴えかけている。シオンは静かにヴァンスの瞳を見つめ返す。 シオンは暫し考え込むとヴァンスから目をそらす。
         シオンの瞳に映し出されたのは神々の歩みを記した本。膨大な歴史。
         「……そうだな」

          するとシオンはヴァンスに背を向け自身の机へと引き返す。
         (そうか、コイツはそういう男か)

          読みかけの本に手を伸ばす。シオンはふと何かを思い出して再びヴァンスを振り返る。
         「私の名はシオンだ」


          真面目で完璧主義者のシオン。自由奔放で何事にもマイペースなヴァンス。
          二人とも全てにおいて対照的だったが以外にもとても相性が良かった。シオンは優れた策士として
         戦場の指揮を取り。ヴァンスは普段はぼうっとしていてあまり役には立たないが戦闘の事になると
         人が変わったかのように強くなる。たった一人で敵陣へ突っ込み自分の身長以上の刀を軽々使いこなして
         可憐に舞うように敵をなぎ倒していった。その単独無比で大胆な活躍ぶりからヴァンスは敵軍から
         【血風の白狼】と謳われ恐れられるようになっていった。
          二人はその圧倒的な力の差で神魔騎士軍を追い込んでいく。

          戦場の中で二人の力はさらに輝きを増していった。しかし同時に二人の力が強まり戦果を挙げるほどに
         周囲の二人に対する反感は強まっていった。本人たち以外は皆、彼らが魔道生物である事を知っていたからだ。
          『命への冒涜』と心の何処かでそんな気持ちが渦を巻いていたからなのかもしれない。
          そんなさなか一つの事件が起きてしまう。
         「ぐっあああああああああああ!」
         「ば、化け物っ!」

          凄まじい速さで成長を遂げた二人の力は制御が利かなくなり暴走。自軍の大半を失うほどの大惨事となった。
          急を要する事態に療養中のアスタロトは自ら特殊な腕輪を作り二人に与えた。それは一つの大きな
         水晶から削り出された蒼く半透明な腕輪。特殊な霊気を帯びており強い魔力を抑制する効果があった。
          そして、ついにアスタロトは闇の王が持つ全ての権限をシオンとヴァンスの両名に託した。
          王の座を退いたアスタロトは死期を悟ったかのように自らの身を省みず魔道生物の新たな研究に没頭した。
          その姿からはもはや王としての威厳はおろか、生きているのかさえ分からぬほどの異形さを見せていた。

          事実上、闇の王となったシオンとヴァンス。しかし他の神々は二人を恐れ真の意味で彼らを受け入れる事を拒んでいた。
         「チッ、化け物の分際で偉そうに。 シオンはブリューナの息子だぞ?」
         「確かに兵器として利用するならまだしも我々の王として迎え入れる事など……」
         「まぁ、ヴァンス様はアスタロト殿下の実子であらせられるが、それにしても……」
         「お楽しそうですね? 私たちも仲間に入れてくださいませんか?」
         「ネ、ネアン様!? ヴァンス様も……」
         「………………」
         (俺とシオンが敵同士……か)

          ――妙な噂を耳にした。即位式も終わって間も無くのことだ。
          二人の王の息子、ゼィノンとジュペル。俺たちは、その二つの命を糧に作られた。根拠の無い噂、
         別に今に始まったことじゃない、ネアンもいつも通り穏やかに笑って流している。
          俺と同じで今の噂を気にもしていない。だから聞かない。それを聞くとネアンは悲しい眼をするだろう。
          興味も無い。だから騙されていよう。ネアンはアスタロトには逆らえないだろうから。
          俺は何となく夜風にあたりたくなって大きな中庭を一望できる広いバルコニーに向かう。そこには先客がいた。
         「ヴァンスか、何か用か?」

          虚ろな、すみれ色の瞳にシオンが映る。
         「俺、の事、憎ん、でる?」

          ヴァンスの質問は夜の闇に反響する。不思議な旋律。
         「ヴァンス。 お前はどうなんだ? 私を憎んでいるのか?」

          お互いその問いには答えず暗い夜空を見上げる。月も星も何も見えない真っ暗な夜空を。


          運命を共にしたかつての敵。
          姿を見せない紅い月の下
          奪われた過去に思いをはせ
         夜がゆっくりと明けてゆく。

          ――何度こうした夜を過ごしてきただろう?

          彼らが唯一「自分」を取り戻す事ができる時間。
          そしてまた戦場へと赴く
         【兵器】と言う名の仮面をつけて……。


          ――そんなある日の戦場。
          敵軍に見慣れない一人の少女が居た。前線に立てば凄まじい電撃で敵をなぎ払う翡翠色の瞳をした気丈な少女。
          その姿は血で穢れきった戦場の中で舞い踊る幻のように美しい。しかし、邪心魔光軍の勢いは
         留まるところを知らず神魔騎士軍を追い詰める。勝ち目なしと判断したのか神魔騎士軍は退却を始めた。
          その時、翡翠色の瞳をした少女が兵士の間をすり抜けシオンとヴァンスの前に立ふさがる。
         「……時間稼ぎ程度には、なってみせるよ?」

          少女の表情は疲労に満ちていて僅かに声が震えている。しかし少女の瞳の何処かに
         【決して生きる事を諦めない】そんな強さを秘めていた。
         (この娘、何処かで……)

          珍しくぼぅとしているシオンを尻目に少女が呪文を唱え始める。
          すかさずヴァンスが前に躍り出て呪文を唱え終える前に少女の体を切り裂く。
         「う゛っ」

          少女は地面に倒れこんで抵抗する術を失い息を荒げてヴァンスを睨み返していた。
         「残念だった、わね、皆は逃げ切った、みたいよ?」

          ヴァンスはとどめを刺そうとゆっくりと少女に近づいて行く。
         「……あんたが、敵じゃなかっ、たら仲良くなれそ、うだったのに、残念、ね?」

          ヴァンスは少女の言葉に耳を傾けず長い剣を振りかざす。
         「……待てっ」

          シオンの言葉に寸前のところで剣を止める。ヴァンスは訝しげにシオンを振り返り言葉にしないまま問いかけた。
         「その娘は生かして連れ帰る」

          周囲の神々はあまりのも意外な決定にざわめき始める。思わず口をついて出た言葉に
         シオンは珍しく動揺し慌てて訂正を加える。
         「っ……魔道生物の実験台として、生かして連れ帰る」

          シオンは少女に背を向け、それ以上何も語らず軍に撤退の指示を出す。
         「くっ、私はお前たちの慰み物になるつもりは無いっ! 放せ〜〜っ!」

          少女は縄をかけられ、兵士に連れて行かれながら大きな声で騒ぎ続けていた。
         「シオン様が女に興味を持たれようとはな」
         「しかもあんな人間の小娘を、あの方ならもっと良い方が居られるだろうに」
         「まぁシオン様も所詮、男だったってこ……」
         「……列を、乱すな」

          音も無く背後に立っていたヴァンスが兵士たちを静かに諌める。注意を受けた兵士たちはヴァンスに怯え、
         慌てて列を整えて魔城へと引き上げてゆく。


          蒼い風が吹く。
          紅い月を覆う厚い雲を
         ゆっくりと押し流しながら。
          それは今まで凍り付いていた時が
         音を立てて流れ出したかのように……。


               ドォ〜〜〜ンッ……

          魔城に少女が捕らわれて数日が経つ。少女の傷は綺麗に癒え、
         牢獄を破壊し幾度も脱獄を試みるほどに元気になっていた。毎回派手に牢を破壊するため、
         すぐに発見されて壮絶な追いかけっこの末、再び牢に戻される。もはや少女の魔法による爆発音も
         コノ追いかけっこも城内の名物と化していた。あまりにも派手に牢獄を破壊されてしまったため
         正常に使える牢が無くなり少女のために一つの小さな部屋が用意された。
         「ここから出せ〜〜〜〜出せって言ってんだろうがこのハゲっ! 出しやがれゴルアッ!」

               ドンドォンガッンッ

          少女は強い魔力を持っているため部屋には強い結界が張られている。とは言え声は筒抜け。
          悪い事に少女が監禁されている部屋はシオンとヴァンスの執務室のちょうど中間あたりにある。
         「場所を考慮すべきであったな」

          大量の書類を前に頭を抱えて深いため息をつくシオン。
         「実験体、にする気、無い、だろ?」

          戦況を報告しに来たヴァンスが無表情のまま語りかける。
         「分からぬ、自分でも何故」

               ド〜ォンッ

          地響きと共に大きな爆音が響き渡る。
         「…………結界を強化する必要がありそうだ」

          シオンは再び大きなため息をもらし書類にペンを走らせる。ヴァンスもそれ以上は何も語らず
         部屋を後にし、それぞれの仕事に戻る。


          ――いつもの夜
          仕事を終えたヴァンスはぼんやりと夜空を見上げている。毎日のように夜空を見上げて
         物思いに耽っているヴァンスだが、厚い雲に覆われた空に月の姿を見たことが無い。
         ただ覚えているのは紅く燃えるような光だけ。ヴァンスにとってソレが月なのかは定かではなかった。
          そして、この日も月は姿を見せない。

               〜〜……〜〜♪

         「……?」

          光の無い夜空の下で微かに聴きなれない声が響く。ヴァンスは声に導かれるかのように歩き出す。
          すると小さな中庭に出た。ここから少女が監禁されている部屋が見える。
         (さすがに夜は騒いでないか)

          引き返そうと背をむけたその時、再び先ほどの声が響き始める。
          良く見ると少女が窓辺の椅子に腰掛けて悲しげな表情を浮かべている。

               〜〜〜♪
          二人の物語
         最後のページだけは白紙のまま。

          やさしい時が流れ
         過去の罪を
         過去の幸福を
         このままずっと抱きしめたまま
         深い眠りに落ちる。

          共に歩んだ事を忘れないために。
               〜…〜…♪

          やさしく切々と響き渡る声はその空間全てを包み込んでいた。あまりの美しさにヴァンスも
         思わず息を止めて暫くの間、聞き惚れていた。歌が終わると辺りは再び静寂に包まれる。
         (……………………)

          現実に引き戻されたヴァンスは少女がもう一度歌うのを待った、
         しかし一向に歌いだす気配を感じさせなかったのでヴァンスは少女の部屋のバルコニーに
         飛び移りそっと戸を開け中の様子を伺う。
         「……ぁ」

          カーテンを閉めようと窓際に居た少女と目が合う。
         「……変質者〜〜っ!」

               ドガァッ

          しばしの沈黙後、少女の蹴りがヴァンスの腹に命中。その一撃でヴァンスがバルコニーまで蹴りだされる。
         「っ……ぅ……」

          さすがのヴァンスも予期せぬ攻撃に腹を抱えてその場に倒れこむ。
         (チャ〜〜〜ンスッ!)

          少女はヴァンスには目もくれずバルコニーから逃亡しようと走り出す。

               バァチーン

         「ぃったぁ〜……。 何これっ!」

          少女は昼間シオンが張った結界に激突して顔面を強打。鼻を押さえながら結界を睨みつけている。
         (だったら魔法でぶち破るっ!)

          まだ腹を抱えてうずくまっているヴァンスを尻目に『これを逃したら後は無い』
         と判断したのか結界を破壊しようと少女は呪文を放つ。

               ポンッ

          しかし放たれた魔法はとても弱々しく結界に当たると軽い音と共に消えてしまった。
         「な、な、な!」
         「……魔力が半、減する、結界が、張って、ある」

          ヴァンスは蹴られた場所を押さえながら音も無く少女の背後に立ち結界の事を説明する。
         爆音被害を防ぐため結界内では魔力が吸収されるように昼間のうちにシオンが新たに結界を張り直していた。
         「何だってっ! なら素手で相手になってやるっ! 来やがれ根暗変態っ!」

          ヴァンスは闘志をむき出しにしている少女をぼうっと見つめる。強く光輝く翡翠色の瞳を。
          風が吹く。荒々しくも優しく蒼い風が。暗い雲を押し流して月が二人を照らす。
          少女の瞳と同じ翡翠色の月が。
         (紅く無い?)

               ドガァッ

          翡翠色の月に見とれているとヴァンスは再びバルコニーの外に蹴り出される。
         「私を襲おうだなんて百億光年早いっ!」

          少女はそう叫ぶとバンッと戸を閉め部屋の明かりを消した。
          ヴァンスは蹴られた箇所を撫でながら仰向けに横になり月を見上げる。
         (名前、聞き忘れたな)

          ヴァンスの虚ろなすみれ色の瞳に翡翠色の光が宿る。

          ――数日後
         「……で、何でお前がここに居るんだっ!」

          あの日以来、ヴァンスは何度拒絶され蹴り出されても懲りる事無く毎晩
         バルコニーに現れては何をするでもなくぼうっとしていた。
         「名前、聞い、ていない……」
         「お前は人の話を聞いていないな?」

          少女は常にぼうっとしているヴァンスに苛立ちバルコニーに腰掛けているヴァンスを殴り飛ばして地面に叩き落す。
         「ノルン。 私の名前はノルンだっ!」
         「ノルン。 光年は、時間、じゃな、い、距離、だ」

          ヴァンスはノルンと名乗った少女を見上げながら先日の発言を細かく訂正した。
          ノルンはその発言に怒りを露にし、禁止用語を乱用しながら大声で反論している。その後、
         二人の議論は明け方近くまで交わされた。

          ――ノルンが魔城に来てからというもの毎日が騒動の連発。
          魔法を封じられても相変わらず騒音は止むことが無く、家具類をあらゆる物にぶつけて
         破壊しようとしていた。そして今、食事が不味いと難癖をつけて看守と大喧嘩をしている。
         「もっと旨い飯食わせろって言ってんだろうがよハゲっ!」
         「ハゲハゲ言うなっ! 貴様こそ豆粒ほどの身長しか持ち合わせてはいないではないかっ!」

          ハゲ看守がノルンの逆鱗に触れたことで口論はさらにエスカレート。
          こうなってくると誰にも止めることが出来ない。結局シオンとヴァンス自らが事態の収拾をしようと
         乗り込むのだが結果は何時も決まりきっていた。
         「だから私はネギと椎茸は嫌いだし肉より野菜が好きだって言ってんだろうが!」
         「貴様は囚われの身だと何度言えば気が済む! 立場というものをわきまえろっ!」

          ハゲ看守の代わりを見事に勤め上げるシオン。
         「!? 今ハゲと言ったんだ何処の誰たいっっ!!!」
         「…………(広島弁?)」

          【ハゲ】という単語に異常なまでの反応を見せるハ、看守は恐ろしい形相で空を見渡す。
          ヴァンスはそんな彼らの様子を黙って遠目から見守る。時折物騒な物が飛んでくるので寝てもいられないようだ。
         「そもそも貴様のようなっ……」
         「い、い加減、止めな、いか?」
         「「黙れ!」根暗っ!」
         「……………………」

          ヴァンスは言われたとおり黙って引き続き二人の様子を見守る。
          毎日のように繰り広げられる騒音被害と大喧嘩。その中でシオンとヴァンス二人の心は
         確実に変化していた。飾ることの無い豪快な性格のノルン。囚われの身でありながら臆することの無い
         ノルンの態度は兵器として扱われてきた二人にとってはとても新鮮だった。二人はノルンと話をしている
         時だけは【ありのままの自分】を見出したように感情が溢れる。
         「椎茸と肉ばっかりのあんなクソマズイ料理、家畜だって食べないわよっ!」
         「どこに目をつけている! 焼き魚があるだろう!」
         「私はマグロしか食べないのよっ!」

          そう言い放つとノルンは用意されていた食事をテーブルごとぶちまけ、言い争いは更にエスカレート。
          あらぬ方向へと飛び火を始める。
         「食べ物を粗末にするとは何事だっ! だいたい何度家具や壁を破壊したら気が済むっ!
                                               何度部屋を変えたと思っているんだっ!」
         「じじくさぁ〜い。 そんなんだから女の子にもてないのよっ! あぁそうか♪ 
                        私以外の女の子に相手にされないから……寂しい子なんだね。 ぁ、山芋も嫌い」

          ノルンは新しく用意された食事を覗き込んで早速駄目だしをする。
         「…………好、き嫌い、が多い、から大、きくな、れな、いん、じゃ?」
         「黙れ根暗変態。 死にてぇのか? あ゛?」

          ノルンとの会話の殆どが口喧嘩だがそれも心の何処かで楽しいと感じ始めていた。
          敵同士であるという事。自分たちが兵器だという事。生前の立場などの厄介な事を忘れてしまいそう
         になるほどに毎日が充実しているように見えた。

         「お楽しそうですね。 シオン様」
         「……ロベリアか。 何のようだ?」
         「アスタロト様が心配なされて居られました」
         「愚かな。 戦況は我々に有利、何の問題も無かろう?」
         「いえ、その事ではなく。 シオン様がつまらぬ事に現を抜かしはしないだろうか? と」
         「……余計な世話だ」
         「左様でございますか。 ではアスタロト様にはそのように申し伝えて参ります。 よろしいでしょうか?」


          凍った心に映し出された月は
         破壊と殺戮の色には染まっていない。

          止まっていた時計が
         ゆっくり鐘を鳴らし始める。

          出口の無い闇に
         救いを求めて……。


          会議の終了後。ヴァンスは報告書を持ってシオンの部屋を訪ねる。すると、シオンは珍しく仕事も疎かに
         窓の外をぼんやりと眺めている。ヴァンスは書類を静かにシオンの机に置き何も言わず立ち去ろうとする。
         「ヴァンス」

          シオンは物思いに耽りながらため息混じりにヴァンスを呼び止める。
         「私たちは、このままで良いのだろうか?」

          初めて見せたシオンの弱音。
          思いもよらない問いかけにヴァンスは戸惑いながら考え込む。それは、お互い常に心の中に
         あった想い。生前の記憶が無い二人。気が付けば自分たちの意思とは関係なくアスタロトの元で働いていた。
          そのアスタロト本人も数ヶ月前から寝たきり状態が続いている。
         「このままの状態が続けば我々の勝利は目に見えている。 
                             しかし、もしそうなれば人間界の破滅は避けられないだろう……」

          途方も無く長い時を戦争のために費やしてきた神々はいつしか天に定められた
         本来の役目を忘れ、私利私欲を貪るようになっていった。そのため神々が人間を管理しやすい
         ように世界を作り変え、意思をもたないただの肉塊としてのみ生かすという【人間養殖計画】が
         進められていた。絶対的な支配を。絶対的な力を手に入れるために。
         「我々、神の本来の役目は人間たちを、彼らの世界を守る事では無かったのか? 
                                 私たちは、我々神は本当にこのままで良いのだろうか?」

          奪われた過去を捨て今を生きる二人はアスタロトが用意した運命の歯車にただ引きずられている。
          動き出した歯車をとめるすべが無い二人は、ただ時の流れに身を任せてきた。心だけを置き去りにして。

               〜〜〜…〜〜♪

          重い静寂を破ったのはヴァンスでは無く、水の流れのように透き通った歌声。
         「ノルン、昼間に、歌うなんて、珍し、いな」

          シオンは驚いてヴァンスを振り返る。
         「ノ、ルン? あの娘の名はノルンと言うのか?」

          その声からは僅かにシオンの動揺が読み取れた。

               〜〜♪

         「…………?」

          ヴァンスは、無言のまま頷きシオンが今の今までノルンの名前を知らずに過ごしていた事に今更ながらに気が付く。

               …〜〜…♪

         「知り、合い、なんだ?」
         「ぁ、ああ……恐らくは、な」

          シオンは顔を背け逆さまの書類を慌てて手に取り、目を通し始める。
         「…………好き、だった?」
         「なっ! 貴様は、またそのような、くだらぬ事を! だいたい何を根拠にそんなっ」

               ドガッシャ〜〜ンッ

          彼女の部屋に置いてあった大きなタンスが宙を舞い中庭に落下する。その後を追うように
         翡翠色の少女、ノルンがふわりと中庭に降り立つ。その鮮やかな犯行に二人はしばし目を奪われる。
         「……どうやってあの結界を破ったっ!」
         「……ぁっ…………捕まえに、行こう」

          ノルンが結界を破ってしまった事に心当たりのあるヴァンスはシオンから
         バツが悪そうに目を逸らして窓から中庭に降りる。
         「ヴァンス貴様! 何か知っているのだなっ! 待てっ!」

           ヴァンスはシオンから逃れるように逃亡を図るノルンを追いながら思う。
         (何で戦争なんかしているんだろう?)


               〜〜♪
          別れを惜しんで泣かないで
         彼方がくれたこの尊い記憶があれば
         私はまた飛べるから……。

          忘れない。
         決して忘れはしない。

          お別れじゃないよ?
         私もいつか、この翼で彼方と同じ場所へ
         行く日が来るから……。
               …〜♪


          ――誰を想って歌っているのだろう?
         「ノルン」

          聞き覚えのある名。生前の私は神魔騎士軍に居たのだから不思議な事ではないのだろう。
          なのに、この言いようの無い胸の痛みは何だ? 氷の刃を胸に突き立てられたような冷たい痛み。
          彼女の名を、瞳を見詰めるほどに募るこの苛立ちは、何なんだ?
         「これが私の、昔の記憶、か……」
         「おや。 浮かない顔をされておられますね? シオン様」
         「っ貴様! 何時からそこに!」
         「大変失礼いたしました。 つい先ほど参りました」
         「……何のようだ?」
         「はい。 本日はアスタロト様より言伝を預かっております」
         「言伝、だと?」
         「『強い魔力をもった女の体を実験に使用する。 早急に用意して参れ』」
         「…………」
         「いかがなさいました? お急ぎにならなくてもよろしいのですか?」
         「魔力の強い女などすぐに用意は出来ぬ」
         「失礼ながらノルンと言う捕虜が居られたかと。 彼女でよろしいのでは?」
         「っ!? あの女はだめだ、いくら魔力が高いとはいえ危険すぎる。 
                           もし万が一実験に失敗したら……城が吹き飛んでしまう。 他を探そう」
         「左様でございますか……ではアスタロト様にはそのように申し伝えて参ります。 よろしいでしょうか?」


               〜…〜♪
         「……誰の事、歌って、るの?」

          歌い終わり俯いてしまったノルンにヴァンスが問いかける。
         「別に、誰でも良いでしょ?」
         「良くない」

          珍しく鋭い口調で言い返したヴァンス。彼はそれを少し後悔したのか遠慮がちに話しかける。
         「泣い、てる」

          ノルンの頬を雫が伝う。
         「っ、泣いてなんかっ!」

          強がるノルンを尻目にヴァンスは手を伸ばしてやさしく雫を受け止める。ノルンの頭を撫でながら、そっと抱きしめる。
         「……泣いて、いいよ」

          小さく耳元で呟かれたやさしい言葉にノルンは必死に涙を堪えて震えていた。
         「ぅ、うぅっ、っ」

          とうとう我慢ができなくなったのか大きな雫が止めど無く流れ落ちる。ヴァンスはそんなノルンをやさしく受け止める。


         「……離せ」
          暫くして泣き止んだノルンはヴァンスの腕をすり抜けてバルコニーへ出て行く。
          ヴァンスは少し送れて後を追い、並んで中庭を見下ろす。小さい庭ではあったが
         よく手入れがされていて美しい花が咲き誇っている。
         「あ、ぁり、がと、ぅ」

          擦れて消え入りそうなほど小さな声がヴァンスの心に響く。
         「……気にす、るな」

          ヴァンスは空を見上げ小さなため息を漏らす。
         (シオン。 ノルンの心の中には、まだゼィノンが居る)

          消せはしない罪を刻み、生きてきた二つの生命は一人の人間の少女によって失われた心を取り戻す。
          それこそが過ちとも知らずに……